若宮安次郎日露戦争行軍日記他(翻刻)

釈文(現行表記法による)はこちら



 以下は,日露戦争に出征した曽祖父若宮安次郎(有田みかんの産地で,熊野詣や明恵上人ゆかりの和歌山県有田郡吉川出身)が,『陸海 軍人日記』に書き記した文章である。日記2種,書簡3通(1通は他人のものの写しか),歓迎会での挨拶など数種類あり,筆跡からそれぞれが一時期に続けて書かれたものと思われる(その時期は前後する)。句読点は一切無い。筆記具は主に鉛筆で,一部墨書き。「行軍日記」冒頭数枚や最後の書簡の一部は楷書だが,その他は行書である。

 主に,明治時代の一般人(小学校卒業)の文体や表現,用語・用字の紹介を目的として,ここに掲載した。

 なお『陸海 軍人日記』は,明治三十七年九月廿八日印刷,同三十七年十月一日発行,定価金拾弐銭,発行兼印刷者は金港堂書籍株式会社,縦12cm,横8cm,最初の何枚かが欠。日付の最初のページは,上段十二月一日(木曜),下段十二月二日(金曜)。以下上段は必ず奇数日になっている。祖父(安次郎長男)の遺品の中に,大叔父(安次郎次男,戦死)の日中戦争中の戦地での写真日記や手紙類と共にあった。

 翻刻に当たっての方針は以下の通り。

*改行箇所は,すべて本の通り。
*漢字は新字体を用いた。「後」と「后」の区別は残した。
*「/\」(二字以上の繰り返し),「ム」(ござ),「¬」(こと)のように,似た記号を用いた。
*「し=シ,せ=セ,り=リ(も=モ)」の区別が無いので,前後に合わせた。
*「な」はすべて字母は「奈」だが現行と違う形。便宜的に現行のものを用いた。その他の変体仮名は字母を〔 〕で示した。
*〔 〕は,「〔四方拝〕」以外は注。( )は本にあり。
*「三十」の多くは一字だが,便宜的に二字で起こした。二字の場合は〔 〕内に記した。
*一部重複がある。【  】で括った。
*書き込んだページの日付を数字で示した。例えば1201は,(明治三十七年)十二月一日。殆ど上下段に続けて書かれている。また,左のページのみに書くことが多い。
*不明の文字は◇とし,不審の文字は後に?を付した。〔ママ〕(本のまま)は,本が間違っていると思われる箇所である。

 私は長く学校に通ったものの曽祖父以上の浅学魯鈍・無能短才の身ゆえ,不明箇所も多く,地名に限らず間違いも多いことと思われる。わかり次第改めたい。大方のご教示をいただけたら幸いである。

 なお,日露戦争については,国立公文書館 アジア歴史資料センターのホームページで当時の公文書類が閲覧できる。
1201
〔同じ姓の列挙が最後のほうの3箇所にある,戦友か〕
中西新?
道正山口
1203
三八八
一四二

1205・1206
〔後で同じ賞状の写しがもう一度墨で記される〕
賞状
後備第一師団弾薬大隊第二砲兵弾薬縦列
右ハ明治三十八年二月廿日ヨリ三月十一日ニ亘ル榛子嶺万里
堡清河城及ビ地塔附近の連続セシ戦闘
1207・1208
間殆ド独力ヲ以テ砲弾の補給ニ任ジ日々沍寒ヲ
冒シ峻路険坂ヲ有スル十数里ノ行程ヲ往復セ
リ特ニ地塔附近の戦闘ニ於テ砲弾の欠乏
ヲ告ルヤ昼夜兼行屡々寝食ヲ廃シテ
1209・1210
其輸送ニ奮励シ遂ニ
師団の危急ヲ免レシメタルハ
其功績偉大ナリ仍テ茲ニ賞状ヲ附与ス
明治三十八六月一日      阪井重季
後備第一師団長陸軍中将男爵正四位
                    勲二等
                    功四級

1213・1214
【明治三十〔二字〕七年東洋の風雲忽ニシテ急き】
1217・1218
明治三十七年東洋の風雲忽チニシテ急き告げ
茲ニ始メテ日露戦役起ルヤ現役兵ハ挙リテ
満州路指シテ出発セリ加モ此度の戦役ハ前
年の日清役に比シテ些カ軍備に堅固ヲ要する者有り
后々備役及第第二の補充兵役ヲ召集シ第四師団
臨時砲兵弾薬縦列ヲ編成シ此ヲ大阪市東区小橋寺町
ニ置き日夜兵卒の訓練ニ暇なカり〔里〕き左モ我等入
営は十一月十二日正午ナリシガ弾薬縦列ニ編入され〔連〕てより
一月余の練習の後十二月十三日ニ至リ後備第一師団弾
薬大隊砲兵弾薬縦列ヲ編成ヲ換へられ趨
1219・1220
出発ヲ命セられ翌十四日大阪築港より乗船戦地
を指して出発セリ以後上陸後行軍日記ヲ追
ふて左ニ列記せん十二月十四日午前第八時小橋寺
町出発此日夜来の大雨加之些カ寒冷ヲ覚ヘ
築港ニ着セシハ午後一時頃ナリシガ雨ハ外套ヲ徹
1221・1222
リテ肌ニ粟ヲ生せしに馬匹車輌の積込ニ絡リテ
出帆セシハ午後五時頃ナリシ十五十六十七十八十九廿日の六日
間ヲ船中ニ送リシガ別ニ記載す〔春〕べき程の事モナシ
只異国の風土ヲ楽?しましめしのみ十二月廿一日午後四時
朝鮮鎮南浦着馬匹及車輌の上陸ヲ終
1225・1226
リテ宿舎ニ就きシハ七時頃なりし此夕ヨリ降雪激
シク忽ニシテ一面の銀世界となれり此所ハ日本の
鎮南浦トモ云フ位ニテ日本人の移住者七分ヲ含?む
二十二日ハ滞在廿三日午前八時出発一昨来の降雪
凍リテ馬蹄ヲ滑リ行軍甚だ困難ナリ為メニ
1229・1230
就舎遅ハシ江西兵站司令部ニ着セシハ夜モ既ニ
初更なりき此時始めテ朝鮮人の家ニ宿ル此の行程
八里ニ弱〔ママ〕シ二十四日午前八時出発道路粗悪なル
昨日ト同シク午後五時頃平壌兵站部ニ着平壌門の入口
ニ長狭橋有り車輌の渡橋誠ニ困難にシテ一車輌
ハ橋下ニ落ちし程ナリシ此夜の宿舎ハ平壌守備
0101〔四方拝〕・0102
隊の内ニテ厩舎は宿舎外ニありしモ車厰迄ハ約半里
程モ離レタル為誠ニ不便極リナリシ此行程七里二十五日
滞在兵士の徴発ヲ憂ニテ外出◇◇なり廿六日
滞在昨日ヨリ馬烽フ鉄ヲ氷上鉄に打替へす為す
廿七日午前六時出発午後順安兵站部着里数六里
二十八日仝上午粛川兵站部着五里半廿九日午前七時
0105・0106
出発午後安州兵站部里数六里三十日午前七時
出発嘉山兵站部ニ着仝六里半三十一日午前七時出
発午後定州兵站部ニ着仝七里三十〔二字〕八年一月一日滞在
皆一人五合◇ナル祝飾ヲ給候?此日旅順陥落の報ヲ聞ク也
一月二日午前六時出発午後五時宜州兵站部着此日の
0109・0110
行程約八里二十町三日午前八時出発午後五時半車輦
飯兵站部着此の日の行程五里半四日午前六時出
発午後三時枇◇面◇里兵站部着此の里程五里
十五町五日午前八時半出発午後四時義州兵站部ニ
着此の行程六里以上ハ凡て朝鮮国内にて宿舎ハ
0113・0114
重々韓人の家ナリ六日義州滞在細蜜検査アリ
七日午前七時出発午後二時安東◇兵站部着此の
日の行程三里途次鴨緑江ヲ渡シ此処ヨリ清国ニ入ル
八日午前七時出発午後湯山城兵站部ニ着七里
九日鳳凰城兵站部ニ着七里半十日仝滞在
0117・0118
十一日午前八時出発午後七時着石頭城兵站部ニ着
七里十二日午前八時出発午後七時半大凹溝兵站部着
七里十三日滞在曇天行軍以来始めてナリ十四日午前
八時出発午後塞〔ママ〕馬集着七里此処ハ両縦列及ビ
後備第一師団の予定の集合地ナリ十五日滞在此日兵
0125・0126
站部ヨリ恤兵部品の配与アリ粟ヲコシ手拭靴下絵
端書等数品十六日隊在十七日二王家大堡子転宿
一里兵站部ヲ隔ル十八日ヨリ二月八日迄ハ騫〔ママ〕馬集ニ駐
命右駐命中ハ演習アリ二九月〔ママ〕出発の令アリ午前
八時出発午後恩道溝の峠下リテ宿ル行程三里半
0201・0202
右半縦列は十日程前カン〔土+咸〕敞二向テ出発セシ為め
左半縦列のみ行軍なり兵站部無シ十日午前八時出
発午後南孤山兵站部着四里半此夜清国兵士
ト合宿ス十一日午前九時出発午前十一時カン〔土+咸〕厰溝
着二里半此処ニ衛生隊の宿舎有リシモ此ハ此日出
0205・0206
発の為メ長時間を車
厰二待ちて其後宿ル兵站部より約壱里ヲ隔
距ツ十二日右半縦列の帰り来ルニ遇テ仝所二宿舎ヲ
取リ暫時駐命十三日ヨリ十七日迄隊在駐命
【十三日ヨリ十七日迄】【以後記スル処は弾薬縦列の任務なル弾
薬補給の為めニ動きし日記故煩雑ヲ免レ〔ママ〕ルものあり兵】
0209・0210
以後記スへき処は我等弾薬縦列の任務ナル弾薬補給
の為めニ動きしの日記故煩雑ヲ免サルものアリ兵站
部ト特記せさルは其なきものト知るべし二月十八日出発の
命令アリ午前八時出発午後カン〔土+咸〕厰兵站部の東ニ就
舎約二里十九日午前八時出発午後日モ深ク沈みし頃
0213・0214
下京家ニ着此の処ニテ初回の弾薬補給ヲなス此の日の宿
舎は二里程後方なれドモ翌朝八時◇弾列ニ弾薬
ヲ渡スべき必要アリ為めニ遅刻を恐れて此処ニ露
営ヲなス寒気甚シク暁風脱肌ヲ衝ク七里
二十日仝朝八時弾薬補給の後昨夜まへよれし宿舎
0217・0218
ニ返リ就舎は午後四時頃戦跡の事トテ荒廃モ
甚シ三里強二十一日弾薬補給の為め塞馬集
ニ向テ出発午前八時出発南孤山兵站部泊ル
八里半二十二日午前七時出発午後塞馬集着八
里二十三日午前七時出発南孤山ヘ引返シ宿泊八里
0221・0222
二十四日午前出発下京家の戦跡の荒地ニテ仝縦列
ト午後十一時合併ス夜行軍十四里二十五日午前八時出発
此日の宿舎の地名不明三里二十六日午前八時出発八万
峯ヲ下ル峯下ニ宿ル二十七日午前八時出発乾◇子
ニテ弾薬補給の後夜行軍の見込みニテ下京家兵
0225・0226
【戦跡の荒地ニ仝縦列ト午後
十一時合併ス夜行軍十四里 
廿五日午前九時出発八万嶺下岑下泊ル二十七日午前八時出発
乾河子ニテ弾薬補給の後夜行軍の見込ニテ下京家兵站
部ニ補給の目的ヲ以テ向フ廿八日下京家滞在弾薬未着の
為三月一日夜行軍翌四時地塔着補給ス二日午後四時出発
四道家子宿泊三日馬◇子着四五日六日七日滞在九日地
塔ニ返リ滞在十日出発大京方着十三十四十五十六滞在十八日】
0303・0304
站部ニ補給の目的ヲ以テ向フ二十八日下京家滞在弾
薬未着の為三月一日夜行軍翌午前四時地塔着
補給ヲナス二日午後四時出発四道家子宿泊三日馬団
子着四日五日六日七日八日滞在九日地塔ニ返リ滞在十日
出発十二大京方着十三十四十五十六十七滞在十八日出
0307・0308
発下仁沖着十九二十日二十一廿二二十三二十四滞在廿五日大
検林家子転宿二十六日大隊七巡視二十七二十八二十九三十〔二字〕
三十〔二字〕一日滞在尚四月一日二日三日四日五日滞在六日永陵方面
ニ向テ出発十日呉家堡子着十一十二滞在十三日出発
十四日◇晴着十六日四平衡ニ◇宿十七十八十九廿日廿一廿二
0309・0310
廿三滞在廿四日坎底◇着宿舎移転廿五日出発
白旗堡着廿六日坎底◇着廿七日午後一時
即時出発の命アリ第三小隊の宿舎セシ◇
ニ宿ル廿八日滞在廿九日新兵堡ヲ経テ呉堡子二至ル
廿九日破羅艦体大敗軍
0413・0414
十二月十四日大阪築港ヨリ御用船聖徳丸ニテ乗船午
后五時同港出帆ス海上非常の風波ニシテ乗員の九
分ハ甲板上ニ上ル¬ヲ得ザ◇十二月廿一日韓国鎮南浦二上陸
日本人家ニ舎営廿二日滞在廿三日仝所出発江西着行
程八里強ナリト雖モ道路一面氷ニテ鏡の如く危険
0417・0418
極リナク午後十時迄村落◇降雪ニテ寒気の激烈有シ
廿四日平壌着廿五日廿六日廿七日滞在馬匹ハ悉ク氷上鉄に打
替ヘル廿七日順安着舎営廿八日粛川小山次郎吉◇凍
傷病ニ罹ル入院廿九日安州着舎営三十日嘉山着三十一日
定州着舎営明治三十八年一元旦ヲ祝シ一同日本の方向ニ
0421・0422
面シテ捧剣の礼ヲ為シ一人前清酒五合餅一◇不◇◇シテ
迎年一月二日輦◇着舎営三宜川着舎営四日枇
◇面◇里着舎営五日ノ義州着滞在六日七日清国安
東◇着八日陽山◇着舎営九日鳳凰城ニ着十日滞在
十一日石頭城ニ着舎営十二日窪溝着舎営十三日滞在
0425・0426
十四日塞〔ママ〕馬集着舎営十五日十六日十七日滞在◇十七日半縦列
王家堡子二左半縦列ハ車家堡子二宿舎移転ス以下滞
在ス二月九日出発前進開始温道溝二着舎営十日
南孤山着清国兵営ニテ舎営ス十一日二道高嶺子着
舎営当分滞在十九日仝所出発戦線ニ就ク前進カン〔土+咸〕厰
0429・0430
溝ニ着舎営廿日下京家
ニ着弾薬の補給ヲ為ス仝夜
仝所ニ於テ露営ス寒気激烈ナリシ廿一日仝所ヨリ約三里逆
戻シテ窪子嶺下ニ村落舎営ス廿二日武田軍曹ト共二
塞馬集へ弾薬補給の為メ十四車輌出張シ長門溝着
舎営廿三日塞馬集ニ着舎営ス廿四日午前九時ヨリ兵
器支厰ニ至リ弾薬十四車輌分ヲ受領シ正午出発長
0501・0502
門ニ着舎営廿五日仝所出発カン〔土+咸〕厰舎営の処筒井特務
◇長ニハ至急ヲ要スル旨ヲ以テ出迎ヒニ来ラレ徹夜前
進◇隊ニ合スへき様トの命令ニ依リ遂ニ半徹夜シテ
松樹溝ニ着午後一時四十分村落露営ナリシ廿六日
金年峪着狭宿舎営降雪廿七日八万嶺着村落
0505・0506
露営廿八日乾河子ニ至リ戦線ニ弾薬補給ヲ為シタリ尤モ
彼我ニ激烈シ戦争ニシテ昼夜兼行砲撃続行十一昼
夜続き俗ニ地塔の戦争トモ言フ仝日ハ遂ニ縦列の半
数榴霰弾ヲ補給シ尽シ為メニ我ハ直ニ拾数
里后方下◇河へ弾薬補給の為メ逆戻スル¬トナリ
0509・0510
四道河子ニ於テ村落ニ営ス三月一日下京家ニ着中門厰
ニ至リタル処未ダ后方ニ兵器支厰ヨリ弾薬着ナル旨申
サレシヲ以テ仝所ニ舎営二日午前〔中断〕
0527

0529・0530
壷のような絵     天候
0531
天候
天候
0601・0602
〔以下墨〕
諸君ヨ/\満賞ノ諸君ヨ謹デ一言ヲ御挨拶申上マス四顧
スレバ今ヲ去ル宛モ拾有余ノ昔日清◇◇ノ砌リ我◇領ニ帰タル遼東
半島ヲ還スニ至テ三国干渉結集遂ニ還付スル事ニナリマスヤ我皇
国ハ賠ニノ内ニ露国ニ対シテ恨ヲ飲テ過来タツタノテムイマス然
ルニ露国ハ我国ノ譲歩シタノニ甘ジ益々我意ヲ振イ而モ東洋
ニ羽ヲ延シテ剛欲ヲ逞フセントシ弥々我皇国ヲ蔑視シ更ニ人道
ノ何者タルヤヲ知ズ条約ヲ無視シタノテムイマス処デ我皇国ハ
0603・0604
義ノ為メニ且ツ東洋ノ平和ヲ保持スル上カラ之ヲ黙視
スル¬ガ出来ナクナリマシテ明治三十六年露国ニ対シ条
約違反の廉ヲ正シ事ヲ穏便ニ納メヨート交渉セラレタ
ナレド彼ハ却テ我義言ヲ斥ケントシ仁道ヲ破ルニ至リマシタカ
ラ翌三十七年二月十一日ヲ以不幸ニモ宣戦ノ御詔勅ヲ発布セラルヽ
不得止ニ至ツタノデムイマス然ルニ不肖モ再ビ此ノ勅令后備の内
ニ編入セラルヽノ光栄ヲ得テ俄然十一月九日動員下令ニ接シ勇
進シテ第四師団ニ召集セラレ◇時砲兵弾薬縦列付トナリマシテ
十二月十四日ヲ以テ実ニ振古無前ノ名誉アル戦争ニ従事スル
¬トナリ漸ク驥尾ニ従イ出征ノ途ニ付キマシタノデムイマス
0605・0606
処ガ海上ハ非常ニ風波激シクシテ二三人ヲ余スノ外ハ悉
ク頭ヲ擡ケル¬モ出来ナカタガ立ナフシテ韓国領
南浦ヘ上陸シタノハ十二月ノ廿一日デアリマシタカラ道路ヘ一面
鏡ヲ敷イタ如ク一切ノ地物ハ皆凍ラザルナク人馬ハ為メニ滑側
シテ容易ニ歩行サヘモ自由ナラズ人馬ノ凍傷ニ罹ル者モ◇
ヨク敷アリマシタカラ命掛テムイマシタガ併シ之等ハ予
テ覚悟ノ上デスカラ氷上ノ通過ヤ難路ノ行軍ハ無論当リ前
ノ¬トシテ敢テ驚ク様ナ¬ハムイマセナンダノデアリマス之等ノ
¬ハ軍事視察等ニ行カレタ人達ハ◇◇◇ノ事デスカラ委シクハ
申シマセン只従軍中の一大激戦デアツタト思フ実歴談ヲ◇◇
0607・0608
御噺シ致シマス元出発の前ニ於テ大本営ノ命令ニ依テ
韓国駐◇軍后備第一師団弾薬大隊第二砲兵弾薬
縦列ト改称シタノガ鴨緑江軍ニ附属スル¬ニ変ジタノデ
スカラ殆ド満州軍ノ行動ト共ニ前進シタノデムイマス時ハ二月
ノ廿日寒気ハ実ニ鉄皮膚ヲ吸フト云フノ頃デスカラ冷タイト云
フヨリモ寧ロ痛イト云フ方デムイマシタガ彼ノ有名ナル撫順
ノ要路ニ当ル榛子嶺万里堡清河城及地塔ノ戦闘ハ此日カラ
初マツタノデアリマス互ニ砲火ヲ交ヘ遂ヒツ遂シ〔ママ〕ツシテ漸ク敵ヲ
地塔迄デデ撃退シタノハ廿七日未明デアリマシタ処カ此ノ地塔ト申ス処
ハ敵ハ撫順ヲ守ルニ付テハ左モ枢要ノ場所デスカラ惣テノ
0609・0610
要意カ周到デ砲台ノ如キモ予テヨリ半永久的
看ヲ拵ヘテ置テ弥々トナタラ此処デ喰ヒ止メ様ト考
ヘテ居ツタ処デスカラ兵器抔モ新式の者デ而モ巨
砲ヲ据へ付ケテ在テ当抵言語ヤ形ニテ尽サレン程ノ反抗ヲ
受ケタノデムイマスカラ廿七日カラ三月十一日迄夜半ニ至実ニ十一昼
夜間の長キ間砲煙弾雨ノ止ムトキ〔一字〕ナク激戦奮闘シタ
姿デムイマス恐ラク砲撃続行十一昼夜ニ亘ルト云フ¬ハ今迄
曽テ例シナイト云フテモ決シテ過言デナカロート思ハレルノデ
アリマス其の苦戦ノ有様ハ今考ヘルト身ノ毛ガ立ツ様ニ思ワ
レマス丁度我々ガ此戦争ヲシテ居ル時ハ各方面ヲ通ジテ
0611・0612
惣攻撃ノ時デムイマシタガ殊ニ我軍ハ敵の満州
軍ヲ牽制シテ以テ我満州軍ノ運動ヲ容易ナラシメン
ト努メテ居タノデムイマスカラ尤モ激烈ニ当ツタノデアリマ
シタ敵モ又必死トナツテ新式の野砲十八門デ以テ撃チ出スノデ
スカラ歩兵前衛左右両翼隊並ニ援護隊等ハ
素ヨリ吾々の如キ七八千米◇モ後方遠距離ニ在ル部隊ノ頭
上ニ榴弾ヤ榴霰弾ガ飛ヒ来ツテ破烈スルのデスカラ負傷者
ノ数モ非常ニ多ク或ハ頭ヲ割ラレテ即死腕ヲ千切ラレテ探ス
足ヲ砕カレテ倒レル腹ヲ貫通サレテ戦友ノ背ニ負ハレテ来
ル等戦線ヨリ仮リ繃帯場へ引下カツテ来ル者ハ引モ切ラズデ
0613・0614
歩兵の如キハ中隊全滅砲兵の如キハ兵モ砲モ打砕カレテ
蜂ノ巣ノ様ニナツテ死骸ハ散り/\破乱/\ニナリテ
判明セナイ様ナ有様デ実ニ目モ当テラレナイ始末
デムイマシタ最モ負傷ノ多イ日ハ二百名死者又ハ六七十名位
イノ¬ガアリマシテ誠ニ惨状ヲ究メマシタカラ各兵料共ニ昼
夜兼行寝食ヲ廃シテ(ヤツウケ)タ次第デムイマス処カ我
軍ノ大砲抔ハ僅ニ山砲の二門印砲六門ヨリナイノデスカラ迚モ
遠距離ニアル敵ノ陣地ヲ撃ツ¬出来マセン僅ニ敵ノ前
衛ニアル歩兵位イシカ撃テナイノデアルカラ敵ノ砲兵陣
地ヲ撃ツ様ノ¬ハ思ヒモ寄ランノデムイマシタ就中其ノ砲
0615・0616
弾サヘモ既ニ欠乏ヲ告ケントシテ居ルノデスカラ師
団長ヤ参謀長並ニ高級官副官等ノ苦慮
酸膽セラレシタ¬ハ一通リデハナカツタノデムイマシタ
誠ニ心細イ限リデムイマス然ルニ不肖等ハ此砲弾ヲ補給スルノガ
第一ノ任務デスカラ何処マデモ之ヲ続ケネバナリマセン左レ共兵
器支敞ヤ中門敞二集積シテアツタ丈ケの弾薬ハ既ニ
運ビ尽シテ仕舞タ跡デスカラ又如何トモスル¬ガ出来
マセン出来マセント云テ傍観シテ居ラレル者デナイカラ
兵器弾薬縦列ガ数十里ノ后方カラ兵器支敞ヤ
0617・0618
中間敞へ運ンテ来ルノヲ迎ヒニ行クヨリ仕方ガ
ナイ行テ見タ処ガ矢張先デハ一ヶ所ヘヨリヤル訳ニハナラヌ
山脈一ツ距タテヽ第十一師団ガ馬群丹ノ方デ戦争ヲシテ
居ル其方モヤラネバナラヌカラコチラノ思フ様ニハ補欠シテ
呉ナイ既ニ十日ノ日ノ如キハ師団ハ退却スルヨリ他ニ策ナキノ
危急ニ迫テ来タノデムイマス依テ我々ハ最早理非ヲ弁別シ
テ居ル暇カナイカラ無理無体ニ兵器弾薬縦列カラ送リ付ケテ
来ル弾薬ヲ途中デ千発ヨリ押ヘ取リニシテ縦列の車輌支
那車輌トニ満載シテ喜ビ勇ンデ引返シテ来ル途中
全ク戦闘隊ハ退却スルノ不得止ニ陥タトノ噺ヲ聞テ落胆極
0619・0620
リナク頬ニ勇気モ緩ク足モ膝モダダ/\ニナツテ
前へ出ナイケレドモ此処ガ緊心ト考ヘテ我ヲ忘
レテ声ヲ励マシ腹ノへツタノモ声ノ枯レタモ打
忘レテ丸デ狂人ノ様ニ支那人ヤ兵卒ヲ励シテ徹夜不
眠不休デ漸々十日ノ夜明方ニ先頭ガ我陣地ニ到着
スル¬ニヤツケタ此時ハ早ヤ正ニ師団ハ退却ノ準備ニ掛ロトシテ
居ツタ時デシタカラ只今砲弾ガ到着シマシタト報告シ
マスルト師団長ヤ参謀長ニモ太悦バレマシテ直ニ砲弾兵
陣地へ補給セヨトノ¬デアリマシタガ
0621・0622
段列ハ更ニ受取ニ出デ来ナイ何分益々陣地
ハ接近シテ居ルシ砲車隊ノ陣地へ通フ道ハ尤
モ敵ノ目標トナリ易イ者ダカラ段列ハ◇問二
潜伏シ侭動ク¬カ出来ナイ◇ナイカラ段列ヲ差置
テ決死シテ直接砲兵陣地へ補給ヲ致シマシタスルと
砲車隊モ太活気ヲ現シテ至急敵陣目掛ケ勇
シク砲撃ヲ続行シマシタ歩兵抔モ此砲声ヲ聞クヤ
俄ニ勇気百倍シテ必死トナツテ攻撃シタノデムイマス
運ノ宜イ¬ニハ此時敵モ矢張砲弾ニ欠乏ヲ告ケントシテ
0623・0624
居ツタ者ト見ヘテ遂ニ応戦スル¬ガ出来ナク
ナリ十一日ノ午后ニナルト段々ニ砲声ガ切リ/\ニナル
ヲ幸ヒ我砲兵益々猛射ヲ極メタスルト十一日
ノ夜ニナルヤ絶テ応戦シナイカラ進撃シテ見ルト既
ニ敵ハ退却シツヽアル者ダカラ時ヲ移サズ直ニ之ヲ追撃
シ遂ニ撫順ニ窮迫シタノデムイマス此時宛モ良シ
第十一師団ガ馬群丹ノ敵ヲ撃退シテ追撃シ
来タツタ時デシタカラ互ニ言ヒ合セネ共撫順ヲ包囲攻
撃シ迅速二又敵ノ退路ヲモ要撃シテ
0625・0626
多大ノ損害ヲ蒙ラシメ遠ク鉄嶺附近
迄モ足止リサヘモセシメズシテ追払ツテ仕舞
ツタノデムイマス之等敵兵ノ過半数ハ奉天方面ニ
居ツタ相デスガ夫レ撫順ガ危イト云フノデ急ニ奉天方
面カラ援兵トシテ送ツタ者ノ様デアリマシタ其処ニ
乗ジテ我満州軍モ一時ニ奉天ヲ衝イタ者デスカラ
不意ヲ喰ツテ敵ハ周章狼狽シ遂ニ我満州軍
の為メニ一掴ミ二セシメラレタノデムイマス故ニ意外ニモ
早ク奉天陥落ノ報ヲ送ル¬ガ出来タノデアリマス
0627・0628
之等ハ啻ニ一例ヲ挙ゲテ御噺モノシタニ過ギナイノデム
イマスガ先ツ何レノ戦争モ斯様◇◇合ニトントン
拍子ニ調子克ク行ツタノハ皆之レ天祐デムイ
マシヨ悉ク戦ヘバ勝チ迫ムレバ取リ至ル処ニ旭旗ノ翻ルノヲ
見ルノ好結果ヲ奏シ世界ニ名誉ヲ発輝シ至ル処
賞賛ノ声ヲ以テ迎ヘラレ全世界一ノ強国ナリト尊
敬セラルヽニ至ツタノハ畏クモ我 天皇陛下ノ御稜威
ニ依ルハ勿論デムイマスガ一ツハ又上下一致協力ノ結果ニ依ルモノ
ト確信シテ居ル次第デムイマス而モ敵国ハ開戦当時必勝
0629・0630
ヲ斯シテ居ツタニ違ヒナイノガ憐レニモ百戦百
敗ニ終リ予想外ナル不幸ヲ見タト云フノハ全
敵兵ガ弱イ計リデナイ上下ノ人民ガ一致シテ居
ラナンダデアリマシヨー又自慢スル様デスガ我日本
兵余程強イ情デアリマシヨー何故日本兵ハ其様ニ
強イノデアルカト云フト之ニ原因ガムイマス其原因ハ何デ
アルカト云フト古来ヨリ特質の日本魂否中々忠君
愛国ノ心ヤ日本魂位デハナイモツト外ニ原因ガアリマス聊
モ内地ニ在テ苦心酸胆セラレタル処ノ諸氏ト云フノガ
「第四期教育科目」
原因デムイマス此諸氏則チ後援此ノ后援ガナカタ
ナラバ決シテ日本兵ハ強イト云フ¬ハ出来マセンダロ
ート思ハレマス古諺ニモ言ヘル如ク忠孝二ツナガラ
全カラズデ或ハ父母ニ心ヲ引サルヽカト家政ニ心ヲ苦シメル
カトカ又ハ妻子ニ心ヲ残スカ種々無形ノ敵ガ胸中ニ潜
0701・0702
伏シテ居ツタナラバ動モスレバ敵ヨリモ
脆イカモ知レンノテムイマシタロー実ニ開戦以来
ハ長キ年月ヲ費シ平和克復ニ至ル迄の間諸氏ハ克
ク軍費の重荷ヲ負ヒナガラ数年一日ノ如ク不絶
出征者ヲ慰問シ剰ヘ其家族ヲ扶助救護セラレ
以テ出征者ヲシテ実ニ后顧ノ念ナカラシメラレタルノ
結果ニ他ナラズ与テ大イニ力アル次第デムイマス抑モ
身男子ト生レ軍人ニ採用セラルヽハ男子ノ本分軍人
0703・0704
トシテ屍ヲ戦場ニ曝スハ軍人ノ本分テムイ
マス然ルニ不肖等ハ啻ニ此本分ヲ欠キタ
ルノミナラス身ニ寸功モ立テザル内忌ハシキ
媾和条約締結セラレ乍遺憾凱旋セザルノ止ム
ナキニ至リマシタ今ヤ不計モ斯ル盛大ナル歓迎会
ヲ開催セラレ非常ノ優待ヲ蒙リ而已ナラズ席
末の光栄ヲ汚サントスルハ却テ汗顔ノ他ハムイ
マセン謹デ茲ニ一言御答ヘ◇ニ感謝スル次第
テムイマス
0705・0706
【     賞状
後備第一師団弾薬】
0709・0710
【     賞状
後備第一師団弾薬】
0713・0714
【     賞状
後備第一師団弾薬大隊第ニ砲兵弾薬
縦列】
0717・0718
      賞状
後備第一師団弾薬大隊大弐砲兵弾薬縦列
明治三十八年二月二十日ヨリ三月十一日ニ亘ル榛子嶺
万里堡清河城及ビ地塔附近ノ連続セル戦闘
殆ド独力ヲ以テ砲弾ノ補給ニ任ジ日々沍寒ヲ冒シ
0719・0720
峻路険坂ヲ有スル十数里ノ行程ヲ往復セリ
特ニ地塔附近ノ戦闘ニ於テ砲弾ノ欠乏ヲ告
ルヤ昼夜兼行屡々寝食ヲ廃シテ其輸
送ニ奮励シ遂ニ師団ノ危急ヲ免レシ
0721・0722
シメタルハ其功偉大ナリ仍テ茲ニ賞状
ヲ附与ス
明治三十八六月一日     正四位
后備第一師長陸軍中将男爵勲二等 阪井
                   功四級 重季
〔以上墨〕
1021・1022
謹啓燈下書ト親ムの砌リ貴衛各位益々御清◇
ノ赴キ◇喜◇◇奉◇候降テ野生モ以御蔭ヲ不相
変無事ナル¬如旧ニ御座候間乍◇左様御放慮
給リ度く却説戦局モ弥々平和克復ト相成リ既ニ御批
準済一旦又日英◇約ト相成候赴キ為邦家の実ニ御同慶
◇◇義奉◇聞ク処ニ依レバ内地ハ各所至ル処ニ暴民
蜂起シテ屈辱媾和の為メ愚民ヲ煽動シテ一揆ヲ
起サントシ就中東京横浜等ニテハ血気ノ小勇ヲ振
ヒテ此挙ニ乗じ内相の官邸及堂◇署交番所等
1023・1024
ヲ焼棄シタルヤの由而モ輦轂ノ下ニ於
テ斯の椿事ヲ演出スルガ如キハ文明の国
民トシテ大恥辱之ニ勝ル¬ナシ況ンヤ言
論ニ自由ヲ与ヘラレアルニ於テヲヤ抑モ吾国ハ  宣戦媾和共ニ
天皇陛下の  大権ニ属スル処ニシテ敢テ国民タルモノ之ヲ
◇啄スヘカラザルハ立憲政体の真相タリ吾人ハ素ヨリ
媾和不成立ニ至ラバ戦イ媾和成立セバ凱旋スルノ
ミニシテ毫モ喜憂ヲ感ゼズト雖モ局外者トシ
テ【者トシテ】之ヲ見ル時ハ第一国民カ不快スル処の閣臣ニ国
1029・1030
等二国家の政務ヲ一任シタルハ過失云フニ過ス
又之等ラノ為メニ常ニ籠絡セラルヽ代議士ヲ撰出
シテ省ミザル処ナキハ之レ何人ノ罪ゾヤ
換言フレバ因果応報ト言ハザルベカラス豈ニ将来ニ於大ニ
注意ヲ加フベ¬ト存◇愚考ハ戦後二於テハ素ヨリ経済上
多大の辛酸ヲ◇〔口+賞〕メザルベカラサルハ当然ト存候ヘハ野生◇
等万一凱旋スルノ秋ニ当ツテモ日清戦役の如キ◇費
省き更ニ歓迎等の労ヲ煩ス¬勿ラン¬ヲ切望の至り
1031
ニ候軍人ガ国難ニ当リテ出征スルハ当然の義ニシテ
生命ヲ全フシテ帰ル如キハ軍人タル職ヲ尽シタル
者ト謂フべカラズ左スレバ吾々ハ歓迎ヲ受クルノ道理
ナシト存候へバ予メ以テ前御断申上◇先ハ時分
柄益々御自愛◇念ニ候余ハ追テ◇◇申
上べク如斯ニ御座候匆々◇候
1101・1102
十月廿日ニ雪約三寸九月中頃ヨリ霜
降リ氷ハ九月未〔ママ〕ヨリ【氷ハ】張リ実ニ寒
気◇ク山林の木の葉ハ九月迄ニ落ツ
1107・1108
〔すべて後の書簡中の語〕
浜毀揆◇◇◇◇署輝単ニ◇方
摂生御憐察立憲政体賊
1109・1110
拝復仕候時下弥々燈火書ト親の砌各位御益々御清◇の◇
奉◇上候降テ野生ノ義以御蔭不相変無事ナル¬如旧◇ニ候間
心◇左様御放慮◇度く却説九月六日出の御書正ニ着有
難拝見仕候毎日留主宅御◇◇ヲ煩シ加フルニ度々御慰問ニ預リ
◇事御多忙中御懇情の程奉深◇候弥々戦局モ媾和成立
ニ相成候模様ニシテ戦勝の光栄万邦ニ響き渉リ御同
1111・1112
慶の至リニ存候然ルニ頃
日来聞ク処ニ依レバ東京横浜等ニテ屈辱媾和ナリトテ血
気の小勇ニ誇ル処の暴民蜂起シテ内相の官邸及◇◇◇
署交番所等◇◇ナケ◇ヲ毀却及焼棄シタルヤの様子
ニテ而モ京都ナル輦轂の下ヲ騒シ殊ニ国民トシテ恥スべき
至ニ存候辱屈媾和ナリトテ前後思慮浅キ愚民の
為メ却テ屈辱の上塗ヲセラレシハ返ス/\モ遺憾極
1115・1116
リナキ次第ニ存候元来吾国ハ宣戦媾和共ニ
天皇  ノ大権ニ属スル処ニシテ敢テ国民の◇啄スヘ
キ処ニ非ラザル処ナリ豈ニ立憲政体の何事ナルヤ
不知国賊ナリト言フモ過言ニ非ラサルベシ夫々ハ
兎モ角戦地ヨリハ已ニ軍隊引揚げニ従事シ居
1119・1120
レバ不遠我々の凱旋モ迫テ
来リ未ダ身ニ寸功モ立テザル
内如此ニ返ルハ只単ニ残念ニ存候願クハ心中御憐
察賜ハリ度候時分也向寒の砌り御◇◇方
ハ有シ間◇ト存候◇一層摂生御注意アラン¬
切望ニ不堪候先ハ右御礼等大略申上度如此
ニ御座候恐惶謹言◇
明治三十八年十月十一日 辻善衛門
1129・1130
〔最終日,上段に書いたものを消して下段にまた書いている〕
若宮○

藤田
道正
山口
「雑録」
右1
謹啓残寒トハ乍申猶寒気激
烈の候ニ御座候処貴衛各位御一
同益々御清福ニテ起挙被遊候や
否ヤ降テ野生儀以御蔭其後不
相変至テは壮快◇◇◇候間乍◇事左様
御体心◇下◇候就テハ去月十四
左1
ヨリ本月九日迄賽馬集在¬王家堡
子ト称スル処ニ滞在中専ラ弾薬給補
浮虜押送等の任務ニ従事致居
候処去九日十日のカン〔土+咸〕敞戦ニ於テ我軍ハ遂
ニ敵軍ヲ撃破セリ依テ敵ハ旺盛陽
及新兵堡ト称スル処ニ退却(此地ヨリ約三里
余)シ目下◇処ニ陣ヲ構ヘ居候我々ハカン〔土+咸〕
右2
敞前ニ進み戦列隊ハ敵陣約壱里前ニ
進ミ彼我睨ミ合ヒノ姿ニ有之申候
而シテ敵ハ一日四五回位イハ我陣地ニ対
テ砲撃致居候ヘ共幸ニシテ毫モ
被害等無シ恰モ小児の遊戯ニ不
異為メニ我軍ニ於テハ更ニ応戦等ハ
不仕目下沈静ニシテ彼等陣地ニ充溢
左2
スルヲ待テ一撃ノ下ニ撃退セント夫々準備
ニ忙ハシク罷在候頃日敵ノ投降者の言
ニ依レハ新ニ溝河軍総指揮官トシテ
陸軍大将壱名新任セラレ大兵ヲ率ヒテ
我軍ニ対ハント押寄セ来ルヤの模様ニ御
座候之迚何程ノ事アラント一同其来
襲スルヲ早カレト手ニ汗ヲ握テ相待
申居候実ニ砲煙ヲ目ニシ弾丸の響
右3
キヲ耳ニシ而シテ露営ニ眠ルハ愉快
ノ極ニ有之申候斯クモ我軍の連戦
連捷の好果ヲ奏スルハ畏クモ我
天皇陛下  ノ御聖徳ノ然ラシムル処
ナリト雖モ又後援諸君ガ克ク戦費
ノ重課ニ耐ヘ出征兵士ヲ慰撫セラルヽ
ニ依ル者ト我人異口同音ニ悦ヒ合ヒ
左3
〔このページ別種,メモ3種が重ね書されている〕
中西

道正
山口〔同じ姓の列挙,4度目〕
ベンジョ
クツ0コ◇◇ベンジョ
コめクロ
堡指揮対卒
戯◇煩懇鈍〔書簡中の漢字〕
右4
申居候野生素ヨリ浅学魯鈍
加之無能短才ナリト雖モ聊カ報国
ノ大義ヲモ弁ヘ居候ヘ共粉骨砕
身以テ優渥ナル朝恩ノ万一ニ酬ヒ
奉ラント存候ヘハ毫モ生還ハ望
マザル処ニ御座候間何◇家族の義
ハ特ニ御配慮煩シ度奉懇願候
左4
◇ べんじょ〔この行のみ別種〕
乍然万一不幸ニシテ此名誉ノ永眠ヲ
荷フ不能ハ再会◇礼申述へク候
当地の気候ハ賽馬集ヨリモ一層
激ク殊ニ◇廿四五日程ハ寒気弥増
シ頃日ハ朝夕0下廿七八度ヨリ三十度位
右5
イノ事モ有之申候為ニ朝煮タ握
飯ハ石ノ如ク歯モ立タザル¬数ニ有
之申候定テ貴地モ猶寒気
ノ¬ト遥察候ヘバ折角各位の
御保養◇一々奉祈候乍筆末
各位一々発◇スヘキ筈ニ候ヘ共
左5
陣中ノ不自由ト軍務の多忙トニ依リ
失礼候間乍御手数宜◇御吹聴
懇願奉◇候先ハ不取敢右迄
余ハ後便ニ譲ル◇◇◇◇◇
明治三十八年二月十七於清国満州
(清)人家
「知己宿所氏名」
タバコ一リリニ箇十五日
朝日壱箇十三日
朝日壱箇廿五日


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